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スタッフブログ

誰かにとっての普通であってもなくても。

 

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恋愛のカタチや

結婚するかしないのか、

性生活を求める人ばかりでないことや

子どもを持つか持たないか、

そういった性質や価値観について

いろんなスタンスや状況の方がおられると思うのですが、

個人の性質や価値観に対して

自分の考えを押し付けて言ってくる人が未だにいる世の中で

びっくりしています。

 

「早く結婚しないと」

「早く子ども作らないと」

 

なぜ、自分の価値観が

相手にとっても当たり前だと思うのか、

問いつめたい気分になります。

(そういった光景に出くわすたびに

 「いつまで昭和の感覚やねん!」とツッコミたくなるのを、

 グッと抑えている私です。笑)

 

一時期、“ 普通とはなにか ”とか

“ 普通でありたい ”とか

“ 普通はつまらない ”とか、

普通に関することが

トピックになっていました。

“ 普通 ”がこれだけ取り上げられるということは

きっと多くの方が “ 普通 ”に合わせることに疲弊したりとか

“ 普通 ”から溢れてしまった感覚があったりとか

“ 普通 ”じゃないかもしれないことが怖くなったり、

そういった体験をしているからではないかと推察していますが、

いかがでしょうか。

 

私はどっちかというと

「…普通かどうかってどうでもいいんだけど…」

と思っている方だと思うのですが、

とはいえ、人間というものは自分のことには無自覚なものなので、

私の中の普通というものが

誰かにとっての価値観とはそぐわず

傷つけていることもあるのだろうとも思います。

どういった立場であれ、

価値観を押し付けないように気をつけたいですね。

 

普通というのがマジョリティと同じような意味合いだと仮定して話をすすめますが、

ある人の、人生における数々の選択がどれも多数派だったところで、

そうだからといってその人がしあわせだとは限らないと

私は思っているんです。

しあわせだと思っている人もいれば、

周りからは「しあわせそうでいいね」と言われるけど

そうでもないという人もいるでしょう。

結婚して子どもがいることをしあわせと思う人もいれば

結婚して子どもがいて

ものすごく大変な思いをしたり

家族から逃れたい気持ちになっている人だっています。

本当はつらくなってきているのに

自分はしあわせだと信じ続ける人もいます。

 

だから、カタチを手に入れても

なんの安心にも保証にもならないと思っています。

 

ひとつ、安心になるかなあと思っていることがありまして、

それは、自分のことを理解してくれる人がいることです。

自分が多数派であろうとなかろうと

そういったこともひっくるめて

それよりも大事な部分で

ちゃんと認めてくれる人がいること。

そういった存在はありがたくて

安心に値することだなあ、と思っています。

 

なんとなく求められているカタチのことは置いておいて

ありがたい存在の人がいてくれて誇りだなあ、

ということに目を向けてみるのもいいかもしれませんね。

 

 

 

臨床心理士  間塚

 

 

 

 

 

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