“家裁で調停の仕事をしている知人から、こんな話を聞いたことがある。
言い合って、言い合って、言い合ったはてに、万策尽きて、
もはや歩み寄りの余地、「合意」の余地はないとあきらめきったそのときから、
ようやっと「分かりあう」ということがはじまる、と。
この話はいろんなことを考えさせる。
まず、分かる、理解するというのは、
感情の一致、意見の一致をみるということではないということ、
むしろ同じことに直面しても、
ああこのひとはこんなふうに感じるのかというように、
自他のあいだの差異を深く、
そして微細に思い知らされることだということ。
いいかえると、他人の想いにふれて、
それをじぶんの理解の枠におさめようとしないということ。”
―「臨床とことば」より抜粋―
「相手に分かってほしい」という想い、
その想いが満たされないことで
心が不安定になったり、不満に思ったりすることがあります。
自分の望んだようなリアクションでないと、
「あの人が分かってくれないの!」と、家族や友人に話して、
満たされなかった気持ちを聴いてもらうことがあります。
自分の感情や意見は
自分だけのもので、
相手の感情や意見は
自分とはまた別のもの。
本当は、そんなこと、分かっているはずなんですよね。
自分がどう思っているか、相手に知ってもらうことはできても、
同じように感じてもらうことってできないものですよね。
逆に、相手の考えや思いを知ろうと聞いてみても、
「え?ちょっとよくわからない」とか、
「普通だったら、この場合こう思わない?」
と、言ってしまったりすることもあります。
自分の考えや判断基準の枠は
相手のそれを全てカバーできるものではないのに、
ついつい自分の枠内で考えてしまうことがあります。
そんなふうに
自分を分かってもらえないと思うことで、
また、相手のことが分からないと思うことで、
時に、自分のこころの箱から、
こぼれ落ちそうになる感情もあります。
悲しみ、怒り、不安、苦しみ…。
そういった感情って、
相手との関係がきっかけとなって感じることになりますが、
そもそもは、自分のこころから湧き出るものです。
ところが、なかなか抱え切れなくてもてあましては、
相手にぶつけてしまっていることもあるものです。
全てを分かり合える関係って難しいものですが、
同じような感覚や価値観が通じ合うときは嬉しいですし
そうでない部分はお互いの個性として認め合いながら、
人との関係を生きていきたいなあ、と思っています。
臨床心理士 間塚