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森院長 12/9(月)~14(土)お休みとなります。
12/9(月)休診
12/10(火)10:00~16:00 髙島
12/11(水)10:00~16:00 髙島
12/12(木)10:00~16:00 髙島
12/13(金)10:00~16:00 髙島
12/14(土)休診
“わたしはわたし” で “あなたはあなた” で、
“わたし” は、あなたのものではないですし
“あなた” は、わたしのものではないですよね。
“わたし” と “わたし以外” のあいだには
「ここからこっちは “わたし”」
「ここからあっちは “あなた”」という境界線があります。
からだ、こころ、そして人権を守るための境界線です。
“わたし” と “パートナー”
“わたし” と “親”
“わたし” と “親友”
“わたし” と “上司”
どの関係にも、必ず境界線があります。
わたしたちは、誰かによって
からだやこころや人権を脅かされることはなく、
自分のからだのやこころや人権を守る権利があります。
嫌なことや不快なことを「No」と言える権利があります。
一方で、相手の境界線を踏み越えることは
相手への脅威となります。
しかし、親密な関係においては特に、
この境界線はとてもあいまいなものになることがあります。
その中では、自分にとっては嫌なことや不快なことも、
Noと言わずに我慢した方が
相手を怒らせないからとか、
空気が悪くならないからとか、
相手が言っていることが普通なのかもしれないとか、
そういった理由で嫌なことを受け容れてしまうことがあるかもしれません。
妊活を始められた場合、
排卵前に性交渉をするというステップを
試みられる方々も多いと思いますが、
中には、性交渉をもてないカップルもおられます。
もともと何らかの事情で難しい場合もあれば
(EDや膣内射精障害、また性交痛があるなど)
妊娠のために性交渉をするということが
苦痛に感じられる場合もあります。
どちらか片方が苦痛を感じる場合
お互いに妊活がつらくなりますよね。
相手が苦痛を感じる場合に
「性交渉しないのは、子どもは本気では欲しくないってこと?」
「受け容れられないのなら ボク/わたし を好きでないのかも…」
「性交渉してもらえないことが悲しい、傷ついている」
「子どもがほしいんなら、ちょっとくらい我慢してほしい」
というような思いや考えがあったりするかもしれません。
相手が苦痛を感じることで
ご自分も苦しいお気持ちになられると思います。
とはいえ、性交渉は、
相手が苦痛を感じているのに
無理にしてはいけませんし、
我慢してするものでもありません。
これは、境界線を超えている/脅かされていることになりますよね。
このように妊活のための性交渉がむずかしい場合は、
二人の子どもをもつということが
共通の目的であるならば、
性交渉をもたずに妊娠できますので、
そういったステップを踏んでみるかどうか
話し合われることをおすすめいたします。
方法としては、性交渉を伴わないタイミング療法(シリンジ法)、
子宮内に精子を注入して受精を試みる人工授精、
卵子を採って精子と受精させて、受精した卵を子宮内に戻す体外受精があります。
性交渉ができないという理由以外にも
人工授精や体外受精を選択される方はおられるので、
背景はさまざまですけれども、
2022年に実施された体外受精で生まれたお子さんは7万7206人なので
10~11人に1人は体外受精によって育まれた命ということになります。
シリンジ法や人工授精での出産も合わせれば
性交渉をもたずに生まれた命はもっとたくさん育まれています。
性交渉による妊娠にこだわられるのならば
そのこだわりがどこから来ているのか、
ご自分の人生でこのことが叶わないとどのような影響があるのか、
今のパートナーとの間で可能なことなのかどうか、
今一度ご自分の価値観や信念について考えてみられるのもいいかもしれません。
それによって、今後の選択肢がみえてくるかもしれません。
妊娠はお二人で取り組んでいただくことです。
相手をご自分の要望通りに変えていくことはできませんので
意見や価値観が合わずにむずかしさを感じられるときがあるかもしれませんが、
お互いの安全を守って尊重し合いながら話し合いを重ねたり、
またお互いに他の相談相手をもって冷静にご自分の考えや気持ちを見つめてみたりしながら、
お互いへの理解を深めつつ、進めていかれることを願っています。
妊娠への方法については診療でご相談いただけますし、
夫婦関係や価値観、考え方、あなた自身の境界線のことなどについては
カウンセリングでご相談いただけます。
ぜひ、状況をお聞かせくださいね。
公認心理師・臨床心理士 間塚
“Shrink~精神科医ヨワイ~”という漫画があります。
今、NHKでドラマ化されていることもあって
(精神科医ヨワイ役は中村倫也さん!)
ご存知の方もいらっしゃるかと思います。
ドラマや映画で精神科医や心理カウンセラーが出てくると、
現場のリアルな仕事ぶりや専門職として役に立っている様子が
描かれていないことの方が多い印象があったので、
Shrinkを読んだときは
「ついに!ちゃんと仕事内容が描かれている!」と思いました。笑
(ただ、患者さんと病院外で出会うことが偶然も含めて多すぎる気はしていますが、
そこは目を瞑っています。)
みなさんはこれまでにいろんな症状に出合い、病院へ行ったことと思います。
発熱や腹痛で内科へ、じんましんで皮膚科へ、花粉症で耳鼻科へ
捻挫をして整形外科へ、病気かはわからないけど妊娠したくて婦人科へ…
では、精神科に行ったことはありますか?
精神科と心療内科は違いますが、心療内科はいかがでしょうか?
もしくは、心理カウンセリングに行ったことはありますか?
行ったことがある方、今行ってらっしゃる方も
もちろんおられるのですが、
きっと行ったことがない人の方が多いと思うんです。
(ちなみに、わたしは行ったことがあります~)
では、行ったことがないみなさん。
行ったことがないのはどうしてでしょうか?
行かなくちゃいけないような状態になったことがないからでしょうか?
ほんとに、そんなことはなかったですか??
アメリカでは精神科の受診率が日本より高いのですが、
“ 「失恋した」
「ペットが死んだ」
「テストの点が悪かった」
ちょっと落ち込んだら予約を入れて会う相手…
彼らにとってそれが精神科医なんです ”
と、ヨワイ先生は説明しています。
ドラマバージョンでは
“ 「恋人と別れた」
「上司に怒られた」とか
ちょっと落ち込んだときに行くところ ”
と、説明されていました。
そういった機会でしたら、
どんな方であっても、
人生の中で何度もあったはずなんですよね。
こころのことは
こころの持ちようで変わるとか
自力でなんとかできるって思ってしまったり、
もしくは自分の努力が足りなかったからだとか
自分がこういうふうによくなかったからだとか
そんなふうに捉えてしまって、
その道の専門の人には相談しないままということが
非常に多いのではないでしょうか?
Shrinkでは、動悸や頻脈、息苦しさという症状が出ている患者さんに
ヨワイ先生がパニック障害という病気の説明をする場面があるのですが、
“ 「鉄のメンタルって言われるくらい強い女なんですよ…」 ”
と言う患者さんに対して、
“ 「パニック障害は心が弱いからなる病気ではありませんよ。
脳の誤作動です。」
「心身が疲れすぎたという危険信号を受け取った脳が暴走しているだけです。
もう十分頑張ったから休んでねって脳が教えてくれているんです。」 ”
と、説明されています。
どんなに穏やかな水面の湖があっても
石を投げられたら水面が大きく揺らぐのと同じで、
わたしたちのかこころやからだが
どれだけ健康であったとしても
何かがあったらそれなりの影響を受けるものです。
小さな石であったとしても水面は揺れますし
小さな石でもいくつか、また定期的に投げられていたら
揺れによる影響も大きくなるでしょう。
石の影響を受けるのは
決してその湖のせいではありませんよね。
石が投げられたら水面が揺れるのは自然の摂理です。
つまり、何かがあったときに、
「いつもの自分じゃないかも…」という状態になるのは
こころのせい、あなたのせいではありません。
人間の自然現象なんですね。
そんなふうな自分の状態については、
自力で治そうと思ったり
だましだましでつきあったりしないで、
専門とする人に「こんなことあったんです~」と相談に行くことは
理にかなった方法だと思うんですよ。
そのために精神科やそういった状況を相談できる場所があるのですから。
心理カウンセリングは
ちょっと落ち込んだりうまくいかなくて困ったときや、
「これからどんなふうに人生を選択していきたいか考えたい」
「わたしらしいってどういうことなんだろう?」
「自分がどういう人間なのか理解したい」
というような、人生の分岐点や決断に関するお話はもちろんですが、
それほど大きなことではないんだけど…と思われるような
些細な内容でも大丈夫なんですよ。
「カウンセリングなんておおげさだわ…」と思うようなことでも、
大切なご自分のことなのですから、
ぜひ、カウンセリングに来てお話いただけたら…と思っております。
出典: 作:七海仁 画:月子 「Shrink~精神科医ヨワイ~ 1 」 集英社
公認心理師・臨床心理士 間塚
わたしたち臨床心理士は、
職質の向上のために
ざまざまな研修に参加し続けているのですが、
研修会によってはデモセッションをすることもあります。
この間も研修中に
参加者さんとお互いにセッションをし合ったのですが、
わたしが話し手(自分のこころを探索する側)のときの体験を
お話してみようかなと思います。
**********************************
まず、今、わたしが気になっていることをあげて、
そのうちの1つにトピックを絞りました。
わたしは、「やらなきゃいけないことを継続してできないこと」を選びました。
では、そのときのやりとりを
記憶を呼び起こしつつ書いてみましたので
読んでみてください。
聞き手(以下、Aさん):そのことを思い浮かべたときにどんな感じします?
話し手(以下、わたし):う~ん…。(どんな感じか探索して…)頭がイーーーッてなる感じ!
Aさん:頭がイーーーッてなる感じなんですね。
わたし:そう。うん、頭の命令に体が従ってくれないっていうか…
(本当にそうかなあ…と考えている)
ああ、なんかスイッチ押すじゃないですか、でも作動しないみたいな?
半押しだったりとか、動かないとかもあって。
Aさん:では、そのスイッチに、名前をつけてください。
わたし:う~ん…(どんな名前が合ってるかなあ…と考えて)
壊れたスイッチ??
Aさん:壊れたスイッチ
わたし:(壊れたスイッチで合ってるのかなあ…)
いや、ちゃんと動くときもあるから壊れてはないか…。
う~ん…(もっとぴったり合うものを考えている)
あ、いちかばちかスイッチ!
Aさん:いちかばちかスイッチ
わたし:そうですね。スイッチを押してみないと、押せるのかどうか、わからない。
押せる日もあるし、押しても動かない日もあるし、半押しみたいな日もあるし。
どうなるかはいちかばちかです。
Aさん:ああ~。押してみないとわからないから、いちかばちかスイッチ!
いちかばちかスイッチがあると気づいてみると、どうですか?
わたし:うん…。(いちかばちかスイッチを思い浮かべてみる)
(すると、そんなスイッチがある自分がだんだんとおかしく感じられてくる)
いやあ…なんだか、こういうのわたしらしいなあ…と思って、おもしろくなってきました。笑
Aさん:おもしろくなってきた
わたし:うんうん。(わたしらしいなあとおもしろく感じているわたしを、じっくり感じてみる)
あ、なんか、でも、わたし、うれしいんです。
そういう自分を、おもしろがれるんだなあと思って。
うん、ああ、よかった!
なんか、わたし、やらないといけないことをやれるようになるには
どうしたらいいのかっていうところを考える方向になるかと思っていたけど、
こういう落としどころになって、おもしろいし、うれしいです。
************************************
その日のやり取りを記録していたわけではないですし
特にAさんの応答は、もしかしたら創作しているかもしれませんが。笑
わたしのこころの展開は、だいたいこんな感じでした。
読んでみられても
「なんなん、この会話」って感じかもしれませんね。笑
この体験の何が、わたしにとってすごかったのかというと、
「いいやん、そういう自分がいておもしろいって思ってみたら?」
と、誰かに言われたわけでもなく、
また、頭で考えて「そう思おう!」と導き出したわけでもなく、
自分の実感を確認していたら
自然と「そのことがあることをおもしろいと思えるわたしに気づいた」ことです。
その気づきによってより自分を理解できたし
より自分をいとおしく思うことができました。
そして、わたし、気になっていることの具体的な説明は
一切していないんですよね。
相談内容をあまり詳細を話したくない場合に最適です。
この一見わけのわからないようで
実はとっても価値のあるセッションは、
話し手がしっかり自分の実感にチャンネルを合わせて
その体験を言葉にしていったことと、
話し手が実感や体験を言葉にできるように
聞き手がちゃんと聞いていること
この両者の響き合いで出来上がっています。
「この話題を話したら何に気づくか試してみたいなあ」
という方がおられましたら、
ぜひカウンセリングにいらしてくださいね。
臨床心理士・公認心理師 間塚
わたしたちは、様々なことに対して
価値判断を下していたりします。
「こういうときは〇〇すべき」
「こういう場合は〇〇してはいけない」
「もっと〇〇しないといけない」
「相手が悪い」
「わたしがかわいそう」
「それはいいことだ」
「こっちの方が正しい」… …
例をあげたらキリがないんですが、
常々こういった思考で
物事を、人を、状況を見ているといっても
過言ではないのではないでしょうか。
SNSでの炎上やトラブルにおいても
一人ひとりの価値判断があおられてしまって
炎を大きくさせているように感じています。
さて、ブログにも書いていましたが、
わたしは、6月から8月の初旬まで
マインドフルネスストレス低減法(MBSR)
というプログラムに参加していました。
マインドフルネスは、
“価値判断することなく、今、この瞬間に、意図的に注意を向ける”こと、
また、そのことによって湧きあがる気づきの状態を意味しています。
もう少しかみ砕いてみると、
日々の心配事や不安、
さっきあったことやこれからの予定、
他人からの評価などといった
つい頭に浮かんでくるようなことにとらわれず、
“今この瞬間の体験”だけに意識を向けるという精神状態を
意図的につくっていくプラクティスです。
主な手法は毎日の瞑想になるのですが、
この“価値判断することなく”というのが難しく、
瞑想中に何か考え事が浮かぶのは当たり前のことなのですが、
「瞑想中に考え事が浮かぶなんて、注意力が足りないんじゃないか」
なんて評価を、わたしはしてしまっていました。
(後半になって、そのことも含むまるっと全部がその日の瞑想体験だと思うようになりました。)
また、これもプラクティスの一環なのですが、
日常生活において、不快な想いをしたときに
“思いや考え” “感情” “身体感覚” それぞれに注意を向けるようにしてきました。
すると、イライラしたり怒っているときって
わたしの価値判断の中では
「そうすべきではないこと」が起こっているときだと気づきました。
「そんなことしたら迷惑じゃない?」
「そんな言い方しない方がいいんじゃない?」
「もう少し相手の気持ち考えた方がいいんじゃない?」
なんてジャッジをしていて、イライラしているわたしがいるのです。
わたしはこのジャッジしているわたしを
わたしの中の“べき子さん”と名付けました。笑
こういったときは、
①べき子さんに気づいておいて、
「今、この瞬間」に注意を向け直します。
(主に呼吸や身体の感覚に注意を向けます)
また、
②その状況から離れるなどをして、
この不快さと距離をとれるように行動することもできます。
もしかすると、
③べき子さんと向き合ってみるというのも
選択肢のひとつとして考えられるかもしれません。
「べき子さんって、姿があるとしたらどんな姿しているんだろう?」
「べき子さんに、何があったらよさそうだろう?」
「べき子さんは、わたしに何を伝えようとしているのかなあ」
なんて、べき子さんと対話をしてみるのもいいかもしれません。
とにかく、自分に何が起こっているのかを
意識するということから始まります。
こういった注意の向け方を続けていくことが
ストレスに圧倒されないこころを育てていくようですよ。
公認心理師・臨床心理士 間塚
連日、各メディアにおいて、
パリオリンピックの熱戦が
伝えられていますね。
その舞台にたどり着くまで
想像を絶するトレーニングや忍耐の日々を積み重ねて、
目指した本番の場でベストを尽くそうとされている
そんな選手や関係者のみなさんの姿をみると、
スポーツとは無縁のわたしも胸が熱くなります。
選手のみなさんそれぞれに
この大舞台での目標を掲げて挑んでおられると思いますが、
もしその目標がメダルということであれば
その結果に恵まれる方は
ほんの一握り、ですよね。
メダルには届かなくとも
自分の中にあるものは全て出せた方もおられれば、
自分にはもっと力があるのに出せなかったと
不完全燃焼に終わった方もおられるでしょう。
自分の人生において
大事な局面のためにどれほど準備をしていたとしても、
その時に思った通りにならないことはありますよね。
それに、その舞台に立つことも叶わないことだってあります。
オリンピックという舞台に限らず、
わたしたちの人生においても、
そういったことは訪れるものです。
ところで、曹洞宗の僧侶である藤田一照さんは、
このようなことをおっしゃっています。
“山には二つの登り方があって
ひとつは山頂に辿り着くことが最優先の「山頂到達型」です。
もうひとつは何型と言っていいのかはわからないけれど
たとえば、今ここで富士山に登ろうと思ったら
たとえそこが東京の自宅であっても
もう登山は始まっているという考え方です。
富士山に向かうという方向で一歩踏み出したら
その一歩はもう富士山に触れているという理解なんです。
このタイプの登山では
たとえ何かの事情で山頂には辿り着けなくても
登山の失敗にはなりません。
頂上に立つことだけが富士山登山なのではなく
そこに至る路に咲いている花や
ふもとでやっているお茶屋さん
たまたま出会う人たちも富士山の一部じゃないですか。
もしも修業や人生が最終の目的のために突き進むものだったら
その目的が果たせなかったらすべてが無意味だったということになってしまいます。
There is no way to happiness. Happiness is the Way.
これはベトナム人禅僧ティク・ナット・ハン師の言葉です。
「幸せに至る道などない。幸せであることが道なのだ」という意味です。
普通、僕らは幸せに至る道があると思っていて、
その道の果てに幸せが待っていると期待しています。
けれども、道が手段で幸福がその結果という関係にはなっていないんです。
wayとhappinessが別々になっているのではなくて
幸福が道になっている、幸せと道は一つなのです。
幸福は道の果てに待っているのではなく、
道を歩いている今の行為の中にすでにあるということだと思います。
その歩き続ける行為そのものが幸福なのであって、
幸福というはるか先のゴールに到達するために歩いているのではないのです。”
(インタヴュー記事をブログ用に一部抜粋、要約しています。
文末に掲載元を載せておきますので、ぜひ全文をご一読ください)
目標に向かってなにかを忍耐強く続けることは
とてもすばらしいことです。
やるべきことをやっても目標が叶わなかったとき
その瞬間には、いろんな感情や思いが押し寄せると思います。
その目標が叶うことが幸せだと信じて、進んできたわけですから。
ただ、その瞬間も含め
このプロセスの中で体験したことが
マルっとぜんぶ、自分にとっての道なんですね。
目標に向けて取り組んだ自分に
「よくできました」と感謝したり労って、
さまざまな体験ができた道に思いを馳せて、
また次の道で満ち足りたこころで過ごせるようにと願いながら
人生を折り重ねていけたら素敵だなと思います。
自分に対してそんなふうに
結果ばかりを求めるのでなく
一歩を踏み出したそのときから
「あらゆる体験を楽しんでね」と
やさしく関わることができたら、
他者に対しても同じような想いで
関われるような気がしています。
まずは、自分に、やさしく ―
*引用資料
藤田一照 「愉快な修業」 トイビト https://www.toibito.com/toibito/series/dc106f83-bac5-4757-8a2b-c905a8391a27
1.修業と悟り 2024.7.30
https://www.toibito.com/toibito/articles/%E4%BF%AE%E8%A1%8C%E3%81%A8%E6%82%9F%E3%82%8A
2.もうひとつの登山 2024.8.6
https://www.toibito.com/toibito/articles/%E3%82%82%E3%81%86%E3%81%B2%E3%81%A8%E3%81%A4%E3%81%AE%E7%99%BB%E5%B1%B1
公認心理師・臨床心理士 間塚
今、“ルックバック” というアニメ映画が公開されています。
わたしは、エンドロールが終わっても、
すぐには立てないくらいのインパクトのある映画でした。
もし、これからご覧になられる方がおられましたら、
今回のブログは観てから読まれるほうがいいかもしれません。
主人公の藤野さんは
漫画を描くのが得意な小学生の女の子で、
学級新聞の4コマ漫画を任されていて
級友たちからも漫画を楽しみにされている存在でした。
ところが、ある日、学校に来ていない京本さんという女の子の
圧倒的な画力を目の当たりにして衝撃を受けます。
そして、この日から藤野さんの努力の日々が始まります。
藤野さんは、友達とも遊ばす家族の団欒にも加わらず、
ただコツコツコツコツと
絵が上手になることだけも目的に努力を続け
描き終えたスケッチブックが何十冊も積み上がっていきました。
ところが、絵を描くことだけに労力を注ぎ続けたものの
京本さんの画力に追いつけないと悟った藤野さんは
漫画を描く階段を上ることをやめました。
卒業式の日、ひょんなことから
藤野さんは京本さんと初めて顔を合わせました。
すると、そこで、
京本さんが、実は藤野さんの漫画のファンで
藤野さんをものすごく尊敬していたことを
伝えてきたのです。
そのことを聞いた藤野さんの
なんとも言葉では言い表せない
身体に広がり、収まりきらない飛び上がるような感覚!
今も私の身体にも広がるような感じがあります。
また、これと似たようなことで、
先日知人に誘われてライブに行ったんですけど、
その前日にB-DASHというバンドのメンバーだった
GONGONさんの訃報を目にしていまして、
ライブのMCでそのことに触れられて、
「僕が初めてコピーした曲、B-DASHの “炎” だったんですよ」と。
「それで、このバンド始めて4年目くらい?に作った曲に、
『この曲めちゃくちゃいい曲っすねえ!』って
GONGONさんがバンドにメール送ってくれて。
僕も『初めてコピーした曲、炎なんです』って返信したりして。
すごい気さくでいい人だったんですが、
あのとき、自分が好きなバンドの人に、
『この曲いいね』って言ってもらえて、
ものすごく自信になったし、続けてこられたなあって」
というようなことを、語っておられました。
自分がものすごく一生懸命に生み出したものを、
思ってもみないところでしっかり受け取ってくれた人がいて
そして「そんなふうに受け取ったよ。こんなふうに響いたよ。」
と、伝えてもらったことが、
そのあとをどれくらい支えてくれたり
どれくらい背中を押してくれるのでしょうか…。
そういったこころのやり取りって
代えがたい贈り物ですよね。
「いいな、響いたな、素敵だな」って思ったことがあったら、
その受け取ったエネルギーを伝えていくことで
思わぬ何かが届いていることがあるかもしれませんね。
それにしても暑い日が続きますので
みなさんくれぐれも無理せずにご自愛くださいね。
公認心理師・臨床心理士 間塚
こころのケアや自己成長などを目的とした
記事や書物を読んでいると、
“ 受容 ” という言葉をよく目にすると思います。
みなさんは、この “ 受容 ” について
どういった印象をおもちでしょうか?
受容って、漢字で書くと
“ 受け容れる ” と書くこともあって、
思い浮かべると胸がざわざわするような
出来事や特定の人のことから
目に映るもの全てについて
受け容れていく器が必要なんだ!みたいな
そういう印象がありませんか?
受容って、 “ 認めること ” なんだそうですが、
そういう出来事や人を、というより、
そういう出来事や人のことを思うと
混乱したり不快になっている自分がいるということ、
そのことを認めるっていうことなんですって。
それでね、わたしたちって、
嫌なことや苦しいことがあると
「頑張って乗り越えましょう!」
みたいな価値観って
どこかにあるかもしれないんですが、
「『嫌だなと思うことは遠ざけることもできるよ!』
という選択肢もあるって、自分に提示できるよ」
ということでもあるんですね、受容って。
無理矢理、身の丈に合わない器を作ろうとするんじゃなくて、
等身大の自分に嘘をつかないってこと、
等身大の自分に必要なことをしてあげるっていうことなんですね。
そういえば、タレントのふかわりょうさんが、
2017年8月に書いておられた東京新聞のコラムを
なぜか最近目にすることがあったのですが、
「いいねなんて、いらない」というタイトルだったんです。
とても素敵で人間性の伝わる文章なので
検索したら全文読めますし
興味がある方は是非全文をご覧いただきたいのですが、
このコラムには
“自分の人生が幸せだと実感したい。
みんなに幸せだと言われたい。
そんなことは周囲が決めることではないのに。”
“人の「いいね」よりも
自分の「いいね」、が一つあればいい。”
と、書かれています。
自分が幸せであるかどうか
自分で自分に「いいね」と感じるかどうか、
これはあくまでも自分の実感で判断されることなんですよね。
周りのいいねに合わせたり
周りからの評価に敏感に反応したりすると、
ほんとうの自分自身とは離れたところに
自分の幸せの判断ができあがってしまいます。
今の等身大の自分、ありのままの自分を
自分が認めていくというところから
始めていきたいですね。
*ふかわりょう「いいねなんて、いらない」 2017.8.19 東京新聞より 一部抜粋
公認心理師・臨床心理士 間塚
わたしたちって、犬や猫などと一緒に暮していたら、
きっとものすごく愛情をもってかわいがるし
何か怒るようなことをしたとしても、こころの中では
「仕方ないよねえ。そうしたかったんだもんねえ。おもしろいよね。」
なんて思っていたりすると思うんですよね。
そんなふうに動物に関しては慈しみ上手なわたしたちですが、
自分自身に関しては慈しみ下手なんじゃないかなあ、
と、感じています。
みなさんは“自分のことを慈しむ”って、
どんな状態と想像されるでしょうか?
慈しむには、
“愛情をもって大切にする”
“かわいがって大事にする”
というような意味があります。
みなさんはそんなふうに
ご自分に対して
やさしく、愛をもって、
かわいがったり興味をもって関わっておられるでしょうか。
例えば、お風呂に入っているときや眠る前に
今日一日を振りかえってみたとします。
さて、どんな出来事が浮かぶでしょう?
もしいつもと違う何かがあった日だったら
そのことがまず浮かぶかもしれません。
仕事で頑張っていた企画が通ったり
お客さんとの対応で楽しかったことなど
うれしかったことも浮かぶかと思います。
一方で、マナーの悪い人をみて不快な気持ちになったり、
誰かのご自身に対する態度が引っかかっていたり、
思ったように時間が使えなくて不全感があったりなど、
嫌なことや不快なことも浮かぶかと思います。
そんなふうに振り返ってみたときに
「こうしたらよかったのに、できなくて申し訳ないな」
「あのとき、私がこういう態度だったからよくなかったな」
「明日のお弁当のおかず、また作れなかった…ダメだなあ」
なんて、どこかご自身を責めてしまうような
そんなふうな思いが自然と浮かんでくることがあるかもしれません。
おそらく、日本人って、
そういった自分を責めがちな傾向があると思うんです。
全然、責めることなんてないのに…
と、思いませんか?
こういうときに
「ダメだよ」って関わるのではなくて、
「そのことを、次からは工夫できるってことに気づいたんだねえ!」
「わたしって、こういうことが気になるんだなあ。
そういう自分って、なんか、ものすごく自分の事が好きなんだなあ。
そんな自分ってかわいいじゃない!」
って、自分にやさしく、自分に興味をもって関わることもできます。
自分にやさしく
自分に興味をもって
自分をかわいがって
自分を愛おしく思って
自分と関わる。
そんなふうに関われたら
ギュっと固まっていたこころが
本来の自由さと取り戻して
より自分らしくいられるようになって、
結果的には社会とも適当に関わりながらいられるように感じています。
ここまで書いて、
そういえば、樹木希林さんが
「おごらず、人と比べず、面白がって平気で生きればいい」
と、おっしゃっていたことを思い出しました。
そんなふうに、いろんな自分を面白がって
自分を慈しんで過ごしていけるといいなあと思います。
公認心理師・臨床心理士 間塚