この間、久しぶりに教授や同級生と会いました。
そこで、ここ10数年話題の、
発達障害についての話になりました。
発達障害にもいろいろな種類がありますし
1人ひとり内容も異なるものなのです。
教授のお子さんもそういった傾向があったみたいで、
小学生のときにランドセルを公園に置いて帰ってきたことがあるそうです。
そういった生活全般についての注意力は
少し足りないところがありながら、
英語の能力は高く、TOEICでは高得点を取っておられ、
今は美術の才能を活かして装丁の仕事をされているんですって。
そういったことも含めて
“みんなに同じことをさせるという教育は変わっていったほうがいいね。
能力をもっているところを育てていかないと。”
という話になっていきました。
心理士は、例えば学校に行かない学生に会ったりしますが、
学生が学校に行くようになることを目的として
会っているわけではありません。
“学校に行かない”という表現はどういうことなのかを考えながら、
その学生が持っている力を発揮できるように、
こころに負担をかけすぎずに過ごしていけるように、
と、思って関わっています。
学生にとって学校がそういった場所でないのならば、
学校に無理に行かなくてもいい、
という価値感があります。
ただ、本人にとっては、そういった、
「みんなができることができない」
ということを経験すると、
「自分はどうしてできないのか」
と、悲しくなることもあるかと思います。
そういうときに、
「できるようになるように、頑張ってみよう!」
と、ものすごく頑張ってみることも
一つの解決法ですね。
そして、そういうときに、もうひとつ。
“みんなと同じじゃなくてもいい” という選択肢があります。
この選択肢って、
「もっと当たり前に選ばれていいのになあ」
と、私は思っています。
人間ってみんな人間という点では同じですけど、
1人ひとり、全部違うんですから。
自分が持って生まれた能力や素質でやっていくのであって、
誰かにできて自分には難しいこともあれば
その逆だってあるのが当たり前だと思っていますし、
そういうものだと思うのです。
カテゴリー分けをすると多くの人たちと一緒だとしても
それで何かが保障されているわけでもありませんし、
カテゴリー分けでは一緒でも、
やっぱり1人ひとり別の在り方をしていると思います。
自分の中の当たり前とは違った他人の在り方を尊敬し合いながら、
相補的に過ごしていきたいなあ、と思っています。
臨床心理士 間塚