空気が湿気を帯びてきて
夏に移ろいゆくにおいを感じます。
数日前に、ミュージシャンの44歳の女性がなくなられて、
(脳出血で突然、でした)
私の周りは彼女と親しい人が多いので、
SNSが悲しみに溢れています。
彼女との想い出を語ったり、
ふざけ合っている写真を載せたり、
彼女へのメッセージを書いたり、
彼女の魅力を伝えようとしたり、
動揺とやりきれない想いが吐露されていたりと
スマホの画面がいろんな弔いに溢れている中で、
知り合いの一人が、
『全ては必然で意味がある、って 人は言いがちやけど
それを認めたらあの大好きな人たちが
こんなにも早くあっちに行ってしまったことにも
意味があるのかよ、あってたまるかよ、
と思うので
おれは全てのことには意味はないと思いたいで。』
と、発信していて、
心の逃げ場ができた気がしました。
病気になって、今までと生き方を変えることになって、
「あの病気があって、今の自分になれました!
だから、あの病気になったことに意味があったと思います。」
と受け止めることだって、もちろんあります。
意味があるかどうかは、
それはその人が意味があると受け取ったらね、
と、私は思っていて、
周りが決めることじゃないと思っています。
例えば、流産を経験したときに、
「妊娠できることがわかってよかったね」とか
「赤ちゃんがお空から見守ってくれていますよ」とか
「きっと、また赤ちゃんが還ってきてくれますよ」と
声をかけられることってわりと多いと思うのですが、
私は、そう言われたとみなさんから聞いたときに、
わりと胸がざわざわしています。
声をかけられたようなことをみなさんも感じているのだったら
その声かけは支えになるのだろう、と思います。
でも、そうは感じていないのに言われたときって
言葉になっていない想いが胸の内にグッと溜まりませんか?
世の中、いろんなことがあります。
理不尽なことや
平等じゃないと思うことは、
たくさんあります。
意味があると思うボックスに入れられるもの
意味なんかないボックスにしか入らないもの
またその間を行き来するもの、
いろいろなものがあるのだ、と思っています。
臨床心理士 間塚